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「ねぇ岡崎!!」

 人間サイズのゴキブリ、もといヒトモドキ、もとい春原が俺に話しかけてきた。俺はその時、これを家に上げたことを激しく後悔した。

「わざわざ休暇取ってまで会いに来たのに、あんた失礼っすよね!?」

「わかったわかった。で、何しに来た?」

「ったく、もうちょっと自分の親友を温かく迎えてくれてもいいんじゃない?」

「いや、俺は友人には最大の敬意と友愛を以て接してるぞ」

「明らかに僕の扱いひどくない?」

「だからお前俺の友人ですらねえし」

「親友だよっ!!」

「まぁそういうことにとりあえずしておいてやろう。で、自称親友の春原は何をしに来たんだ」

「……いろいろと具に落ちないところがあるけど、とりあえず杏に殴られたと思って我慢するよ。それよりさぁ、岡崎」

 腑に落ちない、と言いたいらしい。あと、杏に殴られるというのは春原にとっては犬に噛まれるのと同じレベルらしい。と、自分の中で解説していると、目の前の馬鹿はとんでもないことを言ってのけた。

 

「僕の『春』を買わないかい?」

 

 

 

 

 

 

 

 春を売れ!!

 

 

 

 

 

 

 

「言いたいことはまだあるか?」

 俺はモンキーレンチについた血潮を拭きとりながらそれに向かって訊いた。だめだ、ぴくぴく動くだけでまともに喋ろうとしねぇ。あと、この血、消えるのか?洗剤でごしごしこするか、後で。

「しょうがないな、智代に留守番頼まれてるから川に捨てに行けないし、とりあえずゴミ袋に詰めとくか」

「あんた人を何だと思ってるんですか!」

「お前は人だったのかっ!!」

「人だよっ!!ブラック会社に勤めててもう駄目かもしれないけど人ですよっ!!」

「その再生能力からして人間じゃなさそうだけどまぁいい。で、さっき聞きそびれたけど、何の真似だ?」

 俺はモンキーレンチを構えなおすと、春原を睨みつけた。

「つーかそんな物騒な物、降ろしてくれよ。まともな商談なんだからさ」

「お前が斡旋する売春のどこがまともなのか、俺にもわかるように説明しろ。しなきゃ殺す」

「ひぃっ!あんた杏に似てきちまいましたねぇ?!」

 くわっと春原が目をむく。しかし考えてもみてくれ。ここに(今買い物に出かけている)俺のラブワイフがいて、話を聞いていたら……

 

 

 

「ねぇ岡崎、僕の『春』を買わないかい?」

「お、いいな。どれくらいで売るんだ?」

「今なら僕と岡崎の仲だし、最初の三十分はサービスしとくよ」

「朋也……」

「って、どわあっ!智代、いたのかっ?!」

「私があまり女の子らしくないのは承知しているつもりだ……まだまだ至らないところがあるのもわかる……しかし、しかしだぞ?そこで衆道に走るほど私との夜は退屈なのか?よりによって春原を買うほどまでに私の夜伽が嫌なのか?」

「ち、違う、誤解なんだっ!俺と春原との間には何にも……」

「ふーん?最後に僕と一緒にあの部屋で夜を共にした時はそんな冷たいこと言ってなかったよね?」

「う……」

「朋也……あんまりだっ!何でじゃあ私と一緒になったっ?!何で私を愛するようなポーズをとったっ?!私はもう、お前なしでは生きていけないんだぞっ!?私はっ」

「あっ、智代っ!!」

「どうすればいいんだぁあああああああああああああああああああああああああああああああああ」

「俺はっ!智代が大好きだぁあああああああああああああああああああああああああああああああ」

「僕はっ!岡崎が大好きだぁあああああああああああああああああああああああああああああああ」

 

 

 

「あ、あの、岡崎?何も話してないのに僕の顔をモンキーレンチで暴打するのやめてくれませんか?」

「お、悪い。ちょっと考えてたらふらふらっと」

「ふらふらっと人の顔をへこませないでくれませんかねっ!!」

 見ると確かに顔があり得ない形になっていた。あまりにも目に毒だったので、とりあえずモザイクをかけておいた。

「で、春を売るなんてどういうつもりだ」

「そうだ、聞いてよ岡崎。僕さぁ、結構ついてないと思うんだよね」

 ふと春原の人生を真剣に考えてみた。中学は名サッカー選手と期待されていたのが、高校ではサッカー部から締め出され、不良として三年間過ごしたのち、彼女を作るどころか女子から忌み嫌われ、そして地元の会社に就職したはいいがデスマーチ上等過労死覚悟完了なブラック会社。

「俺なら軽く自殺してるなっ」

「爽やかな笑顔とともに言うなよっ!とにかくだね、きっとこれは僕の運が悪いからなんじゃないかって思うんだよね」

「いや、お前が馬鹿でぐーたらなヘタレだからだろ」

「だから僕はね、ちょいと名の知られた神社に行ってきたんだよ。そしたらさ、僕の前世と関連があるから名前を変えたらいい、って言われてさぁ」

 スルーしやがった。だから悪徳霊能者に引っかかるんだ、と言いたくなった。

「で、オカマとしてやっていくために芸名をつけることにしたわけか」

「何でそうなるんだよっ!いつ僕がオカマになるって言った!!」

「は?でもお前さっき春を売るって……」

 すると春原はふふん、と笑って鼻の下をこすった。

「ここから僕の頭の使いどころさ。ほら、前にさ、有名人で原敬っていたじゃん」

「有名人って……ずっと昔の首相だぞ、おい」

「じゃあ尚更だね!僕の名前もさ、春原陽平じゃなくて、原陽平にしたら、ダンディでクールに聞こえない?」

「じゃあ春は……ああ、そういうことか」

「ふふーん、岡崎もわかったようだね。そうさ、僕はこの『春』をただ捨てるだけじゃないんだ。どうせ無くすんだったら、金にした方がいいだろ?わかったかい?」

 ああわかった。わかっちまった。春原理論を理解してしまった。鬱だ……

「で、どれくらいで買う?」

「言っとくが金はない。つーか、それぐらいお前知ってるだろ」

 俺は町のしがない電気工で、智代は去年の春に入社した新米社員。おまけに結婚式の費用やら何やらの上に、引越しなんてしたから尚更金はない。うーむ、少し急ぎすぎたか。でもまぁ、結婚するってのは前からの取り決めだったし、ここの方が智代の通勤にも俺の通勤にも楽だし、智代かわいいし、それに智代かわいいし、やっぱ智代かわいいし

「って、おい、岡崎聞いてんのかよっ!」

「ん?あ、悪い。で?お前それだけのために帰ってきたのかよ」

「いや、もちろんそれだけじゃないよ。僕を馬鹿にしてんのかい」

「実際に馬鹿だろ」

「うるさいよっ!でもま、残念と言っちゃ残念だけどね、他をあたることにするよ」

 そう言って春原は荷物を手に立ち上がった。

「……おい春原」

「ん?どうしたの?」

 玄関で靴を履きながら春原が答えた。

「お前、宿とか手配してあるのか?」

「え、いや、まだだけど、まぁ何とかするよ」

 すると俺はそっぽを向いて、なるたけ不機嫌そうな声を出した。

「荷物、置いてけ」

「へ?何で」

「いいから。ここ、広いしさ。一応客間はある」

「……悪いよ」

「いいって。今夜の酒、お前のおごりな」

「……じゃあ、そうさせてもらおうかな。うん」

 がちゃん、とドアが閉まるのを聞いて、俺はため息をついた。

 

 

 

 

「はぁ……」

 あたしはため息をつきながら、ぶらぶらと商店街を歩いた。ここんところ、あまり充実した週末を過ごせていない気がする。前なら朋也とか智代とかと遊んでいたりしていたんだけど、その二人も大体半年ほど前に結婚したので、ちょっと二人の新婚生活を邪魔するようで遊びに行き難かった。じゃあ、あたしの最愛の妹は、と言うと、何と彼氏といちゃいちゃ中なんだそうだ。あれ、婚約者だっけ?全く、年下のくせに勝手に結婚だの何だのしてんじゃないわよ、と無性に叫びたくなる。とまぁ、そういう方程式で言えばあたしよりも一年年上の渚なら、と思ったのだが、渚は渚でいつの間にか古河パンが雇った住み込みアルバイト?らしい人と微妙な雰囲気を醸し出してるし……無論あたしの安月給じゃ、ことみに会いにアメリカに行くという手もない。

「あーあ、つっまんないの」

 恋ねぇ。

 あたしにだって、大学時代に言いよってきた連中はいた。でも、何というかどことなく「違う」気がした。そりゃあ、中にはかっこいいな、と思う奴もいた。いたんだけど、何となく高校のクラスの中の男子、という雰囲気がして、そこがどこかあわなかったんだと思う。何というか、いて楽しい、とは思えなかった。と、そういう風に智代に一度愚痴ったら、「贅沢を言うな」と叱られてしまった。

 あーあ、神様。あたしからのお願いです。あたしにぴったりの男性とどうか今週末中に出会えますように。

 そう空に呟いて、そしてすぐに笑った。何それ、どこの乙女よ?嘘うそ、冗談よあっはっはー。そう笑いながら歩いていると

「あ、あれ?杏じゃん」

 あたしはその瞬間、石になったんだと思う。ぎぎぎぎぎ、と音を立てんばかりのぎこちなさで声のした方を向く。

「あ、やっぱ杏だ。おーい」

 そこにはあたしが高校時代の輝かしい日々とともに置き去りにして、というか穴を掘ってぶち込んで上から土をかぶせて花を生けたと思っていた奴がいた。

「……久しぶりね、下僕」

「再会の一言がそれですかっ!っていうか、僕がいつ杏の下僕になったわけ?!」

「高校二年のころからじゃない?」

「それって出会い頭って意味ですよねっ?!」

「当たり前じゃない。それにしても、あんたほど黒い髪が似合わない奴っていないわね。何だったら坊主にしてあげるけど?」

「僕、普通に首になりますよね、それって?!」

 ……あー。これだ。

 あたしが欲しかったもの。そうそう、これよ。陽平弄り、これがなかったのよ。

「……何かすごく不吉な予感がするんだけど」

「気のせいよ。で、何の用」

「あ、そうだ。でも、いやぁ、何だろうね。杏に会えるなんてラッキーじゃん」

 そう言って陽平が頭を掻いた。

「何よそれ。あたかもあたしに会いに来たって感じじゃない」

「まぁ、当たらずとも遠からず?実際、杏に相談したいことがあったし」

 陽平が?相談?

 まあ、こいつも社会人になったわけなんだし、いろいろあるわよね。もしかしたら自分の脳内お花畑と現実社会の常識とのギャップに悩まされてるのかもしれないし。だったら、まぁ腐れ縁のよしみで相談に乗ってあげなくもないけど。

「で、どうしたわけ?」

「つーか、考えてみれば、杏だって一応女の子なんだし、ぴったりかもね。うん、そうだよ、杏ならぴったりだ」

「だから何の話よ?」

 ばしっ

「あと、一応女の子ってどういう意味?」

「……そういうのは辞書を顔に陥没させる前に聞いてほし……いいえなんでもありません」

「で、さっきから何なの?話全然見えないんだけど」

「あ、うん。杏、あのさ」

 すぅ、と陽平が息を吸った。そして、覚悟を決めて言った。

 

「杏、僕の『春』、買わない?」

 

 ……

 ……

 ……は?今、何つった、こいつ?

「あれ、聞こえないの?ねぇ杏?!僕の春、買わない?!!」

 目の前の馬鹿は、周りが振りかえって驚異と興味の視線をこっちに送るほどの大声で、非常識なことを言ってのけた。

「……言いたいことはそれだけ?」

「もっちろん違うよっ!杏とは知らない仲じゃないし、特別サービスさーびすぅ」

 後ろで女子高生らしい二人組みが「何あれ」「うっわ、やば」「あの二人どういう関係なわけ?」と話し合っていた。声を潜めることすらしなかった。あー、これだから近頃の若い世代は。

「って、それよりも陽平、あんた、覚悟はいいのよね」

「へっへっへ、ちょっと寂しくなるけどさ、幸せのためならしょうがないよね。原陽平で頑張ってくよ」

 はぁ?えーっと、ちょっと待つのよ、杏。習ったでしょ、幼児が理解できないことを言い始めたら、頷いて大人の対応をして、後でゆっくりと諭す……

「って、やってられるかぁぁあああああああああああああああっ」

「あぼぼふぇぁああおおおおおんっ?!!」

 不気味な叫び声をドップラー効果で撒き散らしながら、陽平は空の彼方へと消えていった。

「ったく、馬鹿なんだから」

 あたしはさっと乱れた身だしなみを整えると、ふと考えた。

 えーっと、たった今あたしもやもやと悩んでたのよね。えーっとっと、何だったっけなぁ……

 まあいっか。霧散したようだし。

 

 

 

 

「……らくん、春原君、春原君っ」

 声がした。うっすらと目を開けると、そこには見慣れたリボンと、見慣れた瞳が。

「ひ、ひぃぃいいいっ!杏様、命ばかりはお助けをっ!!」

「……いろいろツッコむところがあります。まず、私はお姉ちゃんじゃありません。次に、顔を見て叫ぶのはレディに対して失礼です。それから病室では静かにしていてください」

 うわぁ、と僕はまじまじと目の前の白衣の天使を眺めた。こんなに適切かつ的確に指摘してくれるなんて、椋ちゃんってやっぱり優しいね。あの凶悪凶暴狂戦士女と遺伝子を共有してるなんて、ゼンゼン思えないや。

「……それで、何が起きたの?」

「ええ。回診中に、何だか町の方で大きな地響きがしまして。それから救急車や警察が出動したんですけど、話によると商店街に大きなクレーターができちゃって、そこの中心から見つかったんですね、春原君が」

「ちょっと待ってよ。僕が杏と話してたのが商店街だったんだけど」

「それって、光坂の商店街ですよね。ここ、戸鳴ですよ」

 何てこった。杏の奴、よりにもよって町一つ越えるまで僕を吹き飛ばしやがったよ。あ〜あ、あんな乱暴な女、結婚する相手どころか彼氏もできねえっての。できるんだったら、不老不死とかそんな感じのやばい奴なんだろうねぇ。まぁ僕には関係ないことだけど。

「それより、お姉ちゃんと何かあったんですか」

「ん。いや、別に何にもないよ」

「そうなんですか……あの、お姉ちゃん何だかこの頃元気ないんです。何というか、落ち込んでる感じなんですね」

「そう……なんだ」

 とてもそうは思えない。むしろ、学生時代の時より一層腕に磨きがかかってる爆走中って感じだ。

「そこでお願いなんですが……」

 もじもじと言い辛そうに椋ちゃんが僕を見た。ああ、あれだね、「春原君ってかっこいいし頼りになるから、お姉ちゃんの悩み聞いてあげてください。お礼に何でもしますから」ってことだね。参ったねぇ、椋ちゃんってやっぱかわいいから、あんなこととかこんなこととか考えちゃうんだよねぇ。あ、でも今は勝平と付き合ってるんだっけ?まぁいいや、勝平もセットにしてもまあいいかなぁうへへへへ

「お姉ちゃんに近づかないでください。これ以上変なことになると嫌ですし」

「アンタやっぱり姉妹っすよねぇっ?!」

「何だ、違うと思ったんですか」

 さらりと椋ちゃんが言ってのける。

「まったく、忙しい回診の真っ只中というのに、いきなり空から降ってくるなんて、春原君ジビリの映画の見過ぎなんじゃないですか?人騒がせにも程があります。というか一遍死んでみたらどうですか?それこそ、生命の奇跡への挑戦みたいで面白そうですよね」

 ああ、この毒舌っぷり。やっぱり椋ちゃんと杏って血が繋がってるんだよねぇ、と実感。

「いやだよいやだぁ、お薬いやだぁ」

 その時、病室の向こう側で男の子の声が聞こえた。見ると、やんちゃそうなガキンチョが、母親相手に愚図っていた。

「まさしっ!駄々をこねるんじゃありません!お薬もらわなきゃ、よくならないんですからねっ!」

「いやだいやだいやだっ!チューシャ嫌いっ!チューシャやだぁっ!」

 どうやら注射を怖がっているようだった。へっ、まだまだお子ちゃまだな。

「とにかく、絶対安静ですからね、春原君。数日はここで大人しくしていてください」

「参ったなぁ……今夜は岡崎のところに行くつもりだったんだけどね。あ、そう言えば」

 ふと考えてみた。椋ちゃんが勝平と結婚すると前提した場合、苗字は柊になる。でも、冬を苗字に入れるよりは、楽しそうな春のイメージがいいだろう。椿 椋。うん、いい名前じゃん。

「ねぇ椋ちゃん、僕の『春』、買わない?」

 一瞬、椋ちゃんが強張った。まさし君とやらを叱っていた母親も、急に黙り込んだ。どうやら、みんな僕の天才的発想に驚いているようだった。

「……春原君、本気ですか」

「マジだよ。どう、画期的なアイデアだと思わない?ちょうど婚約してるんだしさあ、ぴったりじゃん」

「……本気ですかそうですか。これから花嫁になる女性に向かってそう言いますか」

 口元に笑みを浮かべる椋ちゃん。前髪のせいで、目は見えなかった。不意に彼女が指をばちんと鳴らした。すると僕はいつの間にかベッドの下から伸びてきた皮製のベルトでベッドに縛り付けられてしまった。

「待っててくださいね。今日という今日は、春原君、地下の霊安室行きです」

「ひ」

「そのまま変態な夢を死んでも見続けてくださいね」

「ひぃいいいいいいっ」

 僕の絶叫をよそに、椋ちゃんがそのままくすくす笑いながら病室を出て行った。しばらくして、母親も居心地悪そうに出て行く。

「こ、こうしちゃいられないっ!逃げなきゃ、あれはマジな目だっ」

 体を動かそうとするけど、ガタガタとベッドが揺れるだけだった。くそっ、滅茶苦茶きつく縛ってあるじゃんっ!

「おにーちゃんもチューシャきらいなの?」

 さっきのまさしくんとやらが話しかけてくるけど、知ったこっちゃない。僕はががっ、とベッドごと移動を始めた。よし、いける。このままいけるっ!

 幸い、僕のベッドは窓の傍で、しかもいい天気だったから誰かが窓を開けっ放しにしていてくれた。僕は窓までベッドを寄せると、ちらりと外を見た。

 やっべ、高い……地上五階ぐらいはあるよ。

 で、でも、このままいたら絶対に安楽死されそうだし、そうでなくとも椋ちゃんの奇妙な実験、そのモルモットなんて嫌だ。よし、男は度胸。男は覚悟。よっしゃ。

「まさし」

「え、な、何」

「チューシャから逃げるってのはね」

 僕はどすんどすん、とベッドの上で跳ね回って勢いをつけながら言った。

「こういうことを言うんだぁああああああああああああああああああああああああっ!!」

 そのまま僕は病院の窓からダイブ。ガラスを突き破る。ああ、地上が見えるよ。で、でも杏の辞書のほうが痛い杏の辞書のほうが痛い。ああ、そう言えばキックも痛かったよな、あの女。あ、キックで言えばさあ、あの青いのってやっぱパンツ?うわあ、あんなゴリラ女でも乙女チックなパンティ履くんだね、むふふ

 

 

 

 

 ぐしゃ。

 

 

 

 

 何というか、死ぬかと思った。くっそう、「お空の境界」では確かに病室の窓から無事着地できてたのに、どういうことだよ。

 そう思いながらベッドの残骸から抜け出ていると、上から「あーっ!逃げられたっ!」という声が聞こえた。見ると、椋ちゃんが窓に駆け寄ってこちらを睨んでいた。椋ちゃんって、投擲の腕よかったんだろうか。杏みたいに百発百中だったら嫌だな。そう思いながら、僕はそんなことを試させる暇を与えずにすたこらさっさと逃げた。

 

 

 

 

 

「悪いな、有紀寧さん」

 俺はカウンターに座りながら言うと、有紀寧さんは笑いかけてくれた。

「いいえ。いつもお世話になってますし、佐々木さんの頼みなら断れないですよ」

 ああ、有紀寧さん。その笑顔は、何て優しいんだ。何て安らぐんだ。

「有紀寧さん……今からでも遅くはない。俺と一緒に暮らさないか」

「佐々木さん、そんな、冗談を」

「俺は本気さ。どこまででもいい。一緒に……」

「何てめえ勝手に人の連れ合いを誘惑しやがる、あァ?!」

 そうやって厨房から躍り出てきたのは、割烹着に身を包んだ筋肉だるま、じゃなかった、有紀寧さんの腐れ旦那で俺の永遠の恋仇、田嶋誠一だった。しかもご丁寧に片手には血塗れの出刃包丁ときた。多分、魚でも下ろしていたんだろう。

「へっ、てめえのほうこそオメデタイ奴だな。有紀寧さんがお前なんかといて幸せなわけがあるか。今日という今日はだなぁ、てめえをぶちのめして有紀寧さんと風になって見せるぜ」

「なあにがぶちのめす、だ。なあにが風になるだ。笑わせるんじゃねえ。こっちこそな、そうやって俺の有紀寧に触れた小汚ぇ手をすっぱり切り落としてくれらぁ。そっちの方がおてんとう様も喜ぶってもんよ」

「やるか、てめぇ」

「おお、獲ったろうじゃねえか、そのタマ」

 俺と田嶋は睨み合って、そして

「仲がいいんですね、お二人とも」

 振り返ると、有紀寧さんが笑っていた。薄目を開けて、こっちを睨みながら笑っていた。

「い、いや、これはその」

「有紀寧さん、はは、無様な面を見せちまったな」

 思い切り不自然に俺達は笑った。顔が恐怖と急な表情の反転についてこれずに痙攣する。

「あ、あの」

 不意に下から声がした。見ると、俺達の後ろのテーブルの下に、あいつが隠れていた。

「もう、大丈夫なんですか」

「ええ。二人とも仲良しですから」

 有紀寧さんの言葉に、一瞬俺達は顔を合わせて睨みあったが、続く「ね?」という言葉に頷いた。

「知ってます?佐々木さんには弟がいましてね」

「有紀寧っ!だめだ、それは言わねえでくれっ」

 田嶋が叫ぶが、それは無視された。

「その弟さんにバイクのいろはを教えたのが誠一さんなんですよ」

「そうだったんですか?」

「ええ。佐々木さんの弟さんは、去年の秋に事故に会われたんですが、無事だと聞いて誠一さん、病院にカチコミでもかけるような勢いで皆さん集めて突撃して、万歳三連呼して蹴り出されたんですよ」

 かぁああ、という音が聞こえそうな勢いで、田嶋が顔を赤くした。「む、昔のことだ」と履き捨てるように言ったが、何分去年の秋だと明言されては立つ瀬がない。

「それから佐々木さんは」

「ちょっと待ってくれ有紀寧さん、何もそんなことまで」

「私達が祝言をあげた時、須藤さんと一緒に一番多く泣いてくれてたんですよ。あの時の佐々木さんの姿は忘れられません。今でも胸がきゅう、と熱くなってしまいます」

 いや、有紀寧さんに忘れられない存在となったことはいいんだけどな?何も泣き面を覚えることもないだろう、有紀寧さん。

「というわけであなた、早く手を洗ってきて下さい。というより、包丁はお客様の前で振り回すものじゃありませんよ」

「お、おう」

「あと佐々木さんも、他のお客様に迷惑をかけるようなことをしてはいけませんよ。ましてや、女性を怖がらせちゃ、めっ、です」

 言葉遣いは優しげだが、その迫力たるや、そんじょそこいらの姐御なんざへでもない、という具合だった。

「……」

 振り返ると、あいつが済ました顔でこっちを見ていた。

「な、何だよ」

「別に。アンタもそんな顔、したんだなって」

「馬鹿な事言ってねえで、とにかく早く相談しろ。ったく、誰のために来てやってんだ」

 そう言うと、俺はカウンターから腰を上げた。

「佐々木さん、あの人、佐々木さんのコレですかい?」

 見知った顔が小指を立てたので、とりあえず殴っておいた。

「馬鹿、そんなわけねえだろ」

「ムキになるところが怪しいなぁ」

「違う。あいつはただ、あれだ。悩んでいたから有紀寧さんに紹介しただけだ」

「ゆきねぇ、人の相談に乗るのが得意でやんすねぇ」

 違う奴も話に加わってきた。そいつの向かいの席が空いていたので、そこに座って有紀寧さんとあいつの方を眺めていた。

「あいつはな、ちょいと訳ありなんだよ」

「訳あり?」

「でやんすか?」

「ああ。親の仲がよくない……ってのは、まぁ俺たちもそうだけどよ。あいつの場合、兄貴がな……」

「お兄さんが不良だとか?」

「不良ならまだいい方だ。俺たちだって今じゃ仕事についてるかもしれねえが、最初は箸にも棒にもかからねぇ悪ガキだったじゃねえか。ただあいつの兄貴ってのはな、それどころじゃねえんだよ」

「借金、でやんすか」

 不意に真面目な顔になって「ヤンス」が言った。語尾に似合わず鋭い奴だった。

「ああ。半端な額じゃねえらしい」

「親がケンカだと、そうそう金も回せないっすよね」

「離婚するかもしれないんだったら、成人して家をゴロゴロしてるドラ息子に金を使うなんてこたぁしないでやんすもんね」

「とまぁ、そんなこんなであいつは俺んところに転がり来たもんだけどよ」

『はぁっ?!』

 二人が同時に素っ頓狂な声を出した。

「同棲してるんすか、佐々木さんっ?!」

「え?あ、いや、ただ行き場がない女をおっぽり出すわけにはいかねえだろ」

「ヤッちゃいました?」

 どがっげしっごすっ

「ずびばぜん……」

「にしても男でやんすねぇ、佐々木さん」

「へっ、当然のことをしたまでよ」

「でやんすねぇ。これぁ、惚れちまったかな」

「よせ、男に好かれても俺は嬉しくないぞ」

「いえ、俺じゃなくて、あの女の話でやんす」

 は、と俺は言ったきり押し黙った。

「心が荒んだまま町に繰り出す子猫ちゃん。しかし行く宛てもなく歩くうちに、すっかり迷子に」

「『おい、ねぇちゃん。こんな雨の中、一人で歩くなんて風邪を引くぜ。俺のところに来るか?』」

「『まぁ、いいの?でもあたし、訳ありなのよ?』」

「『へっ、訳ありの女なら尚更手を貸さなきゃ、男が廃るってもんよ』」

「『あら、顔だけじゃなくて心もいい男。このままずっと一緒にいて、所帯を持てないかしら』」

「ってな具合でやんす」

 うんうん、と腕組みをして頷く二人。

「見りゃあ、いい女じゃないっすか」

「ああいう張り詰めた感じのする女は、惚れるところっとね」

「ね」

「ちがうっ!断じて違うぞっ!!」

 俺は立ち上がってテーブルをばんと叩くと

「何が違うんだ、佐々木よぉ」

 どこぞの等辺朴が包丁を片手にやってきた。

「てめぇ、俺の有紀寧の方ぁ向きながら、何わめいてやがる?あ?何がどう違うんだ?」

「へっ、てめぇこそ自意識過剰な馬鹿は、有紀寧さんに嫌われるぜ?俺は俺の連れの方見てただけだ」

「よく言うぜ。大方有紀寧に気があるだの何だのの話じゃねえのか」

「嫉妬深い奴だな。そんな醜い心の持ち主に、有紀寧さんみたいな清楚な女性は似合わない。俺も一緒に行ってやるから、役所に離婚届を出して来い。それが有紀寧さんにとって一番だ」

「やっぱてめぇ有紀寧に気があるんじゃねぇか。今日という今日はてめぇ、三枚に下ろさなきゃ気がすまねぇ」

「下ろせるものならやってみな。返り討ちさ、一瞬でな」

「やるのかよ」

「やってやろうか」

 額を突き合わせながら俺たちはにらみ合った。視界の端で有紀寧さんとあいつが俺たちを見ていた。有紀寧さん、今日こそこのゴリラから貴方を解放してあげます。あと、お前はそんな心配そうな目で俺を見るなよ。やる気がそがれるじゃねえか。

「佐々木ィッ!!」

「おうっ!!」

 と、その時

「やっほーっ!ゆ・き・ね・ちゅわんっ!!」

 ドアが開いて、見知らぬ馬鹿が現れた。

「え、あ、春原さんですか?」

「え〜、覚えててくれたの?感激ィ〜」

 そう言って、春原とやらは有紀寧さんに駆け寄り、馴れ馴れしくその手に触れた。

 ぴし。

 田嶋が包丁の柄を握りつぶす音が聞こえた。そのまま手から滑り落ちて床にぶっ刺さる包丁の刃。

「何だあいつぁ」

「知らない。知らないが有紀寧さんにあんなに馴れ馴れしくしていい奴じゃない事はわかる」

「それでさぁ、有紀寧ちゃん。今日はちょっと頼みがあってきたんだよ」

「え、そうですか。ではちょっと待ってくださいね。この方の話を……」

「まぁまぁ、そんなに長い話じゃないからさ」

「はぁ……」

 有紀寧さんが困った顔をしているのに、その馬鹿は気づいていないようだった。

「で、単刀直入に言うけどさ。有紀寧ちゃん」

 そしてその馬鹿は、俺たちの聞き間違いでなければこう言った。

 

「僕の春、買わない?」

 

 ……

 …………

 ……………………

『てめぇっ!!』

 俺たちはそれに襲い掛かった。田嶋が熊が鮭を獲るような一撃でそれを吹き飛ばし、そして壁に引っ付いたそれに俺が蹴りを入れた。

「……死ぬ」

「おお死ねや、この腐れドアホウがっ!!」

「貴様、有紀寧さんにあろうことか何言いやがるっ!!」

「ひ、ひぃぃいいいいいいいいいいいいいいいいいっ!!」

 それは更なる一撃をかわすと、ゴキブリのようなすばしっこさで店の外に逃げていった。俺たちは頷くと、表に出て走った。

『待てぇええええええええええええええええええええええええええええええええええええっ!!』

「ひぃぃいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいっ!!」

 

 

 

 

「そんなことも、そう言えばあったな」

 私は紅茶をすすりながら言った。土曜日の午後、私達の家には、杏と有紀寧さんが集まっていた。

「あれには驚いたな。何せぼろぼろになった春原が、私たちに匿って、と頼んできただけでもびっくりなのに、相手が田嶋さんと佐々木さんだからな」

 春原が家に転がり込んできてからしばらくしてベルが鳴ったので出てみると、そこには殺気を纏った熊と豹が立っていたのだった。

「あ」

「坂上」

「岡崎だ」

 何度も繰り返すうちに慣れてしまった会話にため息を吐きながら訪問者を見据えていると、殺気が萎えていき、熊と豹は有紀寧さんの旦那さんと、「Folklore」でよく出会う佐々木という男に戻った。

「で、何のようだ、お前たちは?」

「い、いや」

「あんたの家だとは知らなかった。邪魔して悪かった」

「あ、ああ。いや、殴り込みとかそういうのじゃねぇ」

「そうか。ではな」

「あ、ああ」

 そう言って二人組は帰って行ったのだが、その後で春原がお礼代わりに「僕の春をあげるよ。ただし無料で」とか言ったため、結局は春原は空を舞うことになった。

「あれはおかしかったな」

「あれは朋也が悪い。最初に春原に『春を売る』ということがどういう意味だったのか噛み砕いて教えてやっていれば、こんな騒動にはならなかった」

 私が良人を軽く睨むと、朋也はちぢこまった。恐らく、あの後で続いた説教フルコースを思い出したのだろう。

「でもねぇ、あれはあれでいいこともあったと思うのよねぇ」

 杏が微笑すると、有紀寧さんも頷いた。

「ほう?」

「う〜ん、何ていうか、あの時ね、あたし何だか調子出なかったんだけどね。ちょっと欝入ってたの科なぁ、そんな感じ。で、そこにあの馬鹿が来たわけでしょ。そしたらね、あいつをぶっ飛ばしたら、何だか元気になったのよね」

「春原はお前のストレス解消サンドバッグか?」

「まぁ、当たらずとも遠からずだけどな」

 私がため息をつくと、朋也が突っ込んだ。

「で、椋によるとね、陽平が病院を抜け出した後、まさし君、注射を拒まなくなったんだって」

「そうなんですか」

「ええ。何でも、『チューシャはいやだけど、まどからとびおりるのはもっといや』だってさ。でね、その子、糖尿病だったのよ」

「……なるほどな」

 若いうちから糖尿病になった場合、日々の生活を支えるのは注射によるインスリン摂取である。もちろん注射を怖がり、逃げ回るのは好ましくない。まさし君がその恐怖を克服できたのは僥倖だった。

「実は、私のところに来た時もですね、私、彩夏さんから相談を受けていたんです」

「彩夏さん?」

 朋也が首をかしげた。ああ、そうか。朋也は知らないだろうな。

「佐々木さんの奥さんですよ。彩夏さん、その頃お兄さんの借金のことでいろいろ悩んでいらしたんですけど、そこに春原さんが現れたんですね」

「ふむ」

「で、案の定佐々木さんと誠一さんが怒ったわけなんですけど、後でことの顛末を話すと笑いまして。それで悩みも解決したんです」

「へぇ」

 朋也がどことなくわかったような顔をしたが、私と杏は彩夏さんの相談の内容がわかった気がした。借金を返済する方法として、一つだけ女性にしかできないことがある。恐らく、そのことについて彩夏さんは有紀寧さんに相談をしにいったんじゃないかと思う。そして意味は違えど「春を売りに」来た男が登場、ものすごいことになった。それは滑稽で、だけど他人事とは言い切れなくて、彩夏さんは悩みを笑い飛ばすことにしたんだと、そう思う。

「結局、愛すべき馬鹿、というわけか」

 私が笑うと、当人の彼女である杏が、そして有紀寧さんが頷いた。

「ですね」

「そういうこと」

 

 

 

 

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